2004年。福島の大野病院で
帝王切開中に、子宮に癒着した胎盤の剥離を続けた判断の誤りで、
29歳の女性が失血死してしまい、それは医師の処置ミス・判断ミスだった
と 争われている事件。
医師側は 処置中だった ということで無罪の主張。
隣の福島県の出来事なので 大きく報道されたのか、
私が知らないだけで 全国的に報道されているのか わからないけど
外科処置をする私たちとしても
産婦人科医や 小児科医の数が足りない ことも含めて
この裁判の判決の 関心は高かった。
結局、昨日の 判決で 医師は無罪となった。
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医療従事者としての意見と 医療を受ける側としてと 二つの想いがある。
医療従事者として言えば
もし この判決が 有罪となれば
産科の医師は ますます減少してしまうだろう と懸念された。
と、同時に 小児科医へのなり手 も現象するだろうし
なによりも 外科医が 外科手術をしたくなくなる。
やれば助かるかもしれないことでも できなくなってしまう。
万が一 オペ中に 出血して死亡してしまった時、
訴えられちゃう恐れがあるのでは 正直、おっかなくて 手が出せなくなる。
手が出せなくなる と言い方が 適切でなければ
安全策しか 選択の余地がなくなる と言うか。
自分の身の安全が第一か!? と 言われちゃいそうだけれど
医者だって 普通にお父さんであり お母さんであり 子であり、家族なのだ。
訴えられる リスクを背負うのは とんでもないことだ。
「その覚悟がなきゃ 医師はできない」 とも思う節も ないこともない。
けど、なんとか助けたいからこそ がんばった結果
思わしい結果じゃないこともある。
それで 訴えられちゃ・・それで 医師としての生命を危うくするんじゃ・・・
ちょっと話がそれるけど
昔は一体の献体を一人の医学部生が 隅から隅まで解剖し、人体の把握ができた。
今は一体を何人もで解剖する。献体の数が無いそうだ。
それでなくても 医師一人一人の専門性は充実しているものの
人体全体の把握ができない今の医師に
解剖さえも全部を自分でできないなんて どうよ とも、思われる。
話が戻って リスクが多いから
実際、睡眠時間も過酷な小児科医、産科医が激減している。
リスクの多い麻酔科医もいない。
それでも がんばっている医師を 世間では賞賛したりするけれど
後に 続く医師の卵がいない現状が
言ってしまったら 問題となってしまう いろいろな想いや現実を 物語っている。
とは言え、職業は医師だけれど
人間として どうよ ってヤツも確かにいる。
医師という専門性の高さに のうのうとしている人もいる。
だから 訴えるとはいかなくても 言いたくなることもある。
言われて 当たり前か と思えちゃう医師がいることも ままある。
医療従事者ではなく 医療行為を受ける側に たった場合。
まったく 異なる 想いになる。
専門家に一存するしか 道はないのだ。
わけもわからず ただ お願いし、命も気持ちも 人生そのものを
ただ 預けるしかないのだ。
すべては 手出し無用の 手術室の向こう側。
戻って来たときの状態を 受け入れるしか 道がない。
説明されたって 専門分野過ぎて 別の意見を言えるわけで無し
そこに 参加しきれないのだ。
生きて戻ってくれば 何よりだけれど 万が一 亡くなってしまったり
重大な後遺症が残った場合 そうそう 簡単に 受け入れられるはずがない。
なんで? どうして? どうしてこうなった?
何が悪くてこうなった? ・・・ひいては 誰かのせい?
医療を施す側も 受ける側も 一生懸命なのだが
50%で成功とする施す側と 100%成功を目指す受ける側の 差も ある。
跡が残ってもいた仕方ない これだけ治れば・・・という 医療技術の限界と
できる限り 何事もなかった時のように・・・という 受ける側 の 大きな差。
人を救うって 難しい。
命を扱うって 難しい。
ウチの医院でも 高齢で亡くなる方がいる。
ずっと ずっと通ってらしてて 亡くなられると すっごく 空しい。
特に 今年は 仲良しおじいちゃん おばあちゃんが 数多く亡くなっている。
私生活も含めて 今年は逝ってしまう人が 多すぎて 気が凹んでしまう。
でも ここに通っててよかった と安心してもらいたい。
周りがどうあっても 私には 私の今できうる限りのことを 尽くすだけ。
さて。 ナースのお仕事 がんばろう。